自由について
どうもシェアハウスのカギを忘れて、
もうひとつのカギを持つ友だちは盛岡に、
最後のカギを持つ友だちは夜勤に、
一生に一度使えるならタイムマシンを今ここで使いたいたーくんです。
今回家に入れずにコンビニ前でたむろしてるので、
ぼくの妄想に、自由の迷宮にみなさんを巻き込んでやりやがります。
まず、「自由の定義」を考えましょう。
みなさんのイメージはどんなんですかね?
ぼくはこんなんです。
究極の自由を求めたヒッピーが集まる島として、映画「the beach」の撮影地として使われたのは有名ですよね。
これがぼくの「自由」のイメージです。
正確に言えば、いまぼくがここに行けば「自由」になれるだろうと思い描いているイメージです。
しかし、ぼくがここに仮にすんだとしても「自由」にはなれないと思うんです。
「自由」とは
憧れや夢に似た「一時的なイメージ」だと思うんです。
この時点で賛否両論でしょう!
むしろ否ばかりではないでしょうか!?
某芸人さんがここに入れば至高のタイミングです。
ならば!
こう考えた経緯をぼくが自由を生きてきたと思う人生になぞって、紹介していきたいと思います。
まず、小学生。
この時代は、ゼルダの伝説やドラゴンクエストなどのRPG系ゲームに憧れて、自由を求めて外で冒険ごっこばかりしてましたね。
秘密基地作って、武器作って、探検して、敵(虫)とたわむれてばかりいました。
このころお母さんとの会話が、ドラクエのようにドット絵で見えていて、
当然のように、はいかいいえで答えていて、まるで思春期のようでした。
この記憶は、当時のぼくも今のぼくも自由だと感じています。
ですが、、、
いまのぼくがこのころのように外で探検しても自由ではないと思うんです。
ぼくは一貫して自由を求めてきたはずなのになぜでしょう?
「自由」が変わったのか?
はたまた、
「自由を求めているぼく」が変わったのか?
多分いまぼくがやっても、
西麻布で金にまみれたモンスターと化して、お酒を飲んで、五反田に行くに決まってます。
そして次の日の朝にこう思うでしょう。
「昨日は自由にパーっと楽しんだな。
でも、昨日使いすぎたから今日は節約しなきゃ。」
これって自由ですかね?
分かりますかねこの感覚?
これが自由なら今だにコンビニ前で
オリオンビール飲んでる
僕も自由です。←結構長いこといます。
先ほども言いましたが、
「自由」が変わったのか?
はたまた、
「自由を求めているぼく」が変わったのか?
「自由」とは一体何なのか!?
この謎は中学、高校、大学、社会人、そして今と辿れば解けるような気がします。
ps ひとまず長くなったので、一区切りにします。